恥ずかしさが楽園の都市を産んだ
2004年ごろ、秋葉原は趣味の都としてその活況は凄まじいものがありました。20年を経た2024年現在は趣味の街というよりはコンセプトを持った観光都市になっています。今回映像で引用させていただいたフォーラムやその元となった展示は過去のものであり、20年を経過した発言を取り上げて、これは正しかった、これは間違いだったなどという粗探しをして主張することは批評家気取りであれば誰でもできることです。
特に昨今は失敗を恐れるがあまりなのか以前より日本人の試行錯誤への活力が減っているようにも思う中で、自分の主張のために他者を否定的に捉えれば、これからを切り開く人たちを萎縮させかねません。だからここでは基本的に当時の視点で、そして私が触れたことを取り上げます。
2004年 イタリアのヴェネチア・ビエンナーレで「オタク」を掲げた展示がなされました。当時おそらく欧米にとって逆黒船襲来というべきか、それが性的な部分を併せ持っているだけでなく、その性的な部分も判断基準の異なるものが出現し、相当な戸惑いを与えたのかもしれません。
日本国内や海外でも状況を知る僅かな人はその「オタク展」での出現までの背景があり、そこにはそれまでヴェネチア・ビエンナーレでコミッショナーを務めた建築家の磯崎新さんはじめとするここまで日本を引っ張ってきた存在の創造性や功績によるものが大きいことが、今回の映像のフォーラムの内容からも伝わると思います。
映像中のフォーラムは2005年、このオタク展の凱旋展示として東京都写真美術館のホールで開催されました。私 COTAは風邪をひいていたもののこれ以上の機会はないという気持ちから、友達に何の事前説明もせず強引に会場へ引き込みました。会場となる美術館に叱られても構わない覚悟のもとで、写真を撮りマイクと収録機材を座席に設置して聴いていました。そんな人は他にいなかったので相当目立っていたものと思いますが、東京都写真美術館が広い心だったのか呆れられたのか、あるいは無敵の人と見られて何らかの報復を恐れられて触らぬ神に祟りなしとされたのかは分かりませんが、とにかく咎められることもなく収録していました。
フォーラムは結果的に、建築・空間・都市デザインだけでなく、オタクの地位、今の多様性に至る人格・文化といった視点をあったように思います。
故・磯崎新さんは自らがオタクではない中で、将来を不安視する質問者に対して、考えうる時間軸を含めた全方位とも言える角度からフォローするという平和で思いやりに溢れる伝説の空間となったと思っています。そしてこの磯崎さんの姿勢に建築とは人だなと感じました。
それはちょうどCOTAが思春期であったことも影響するかもしれません。しかしそれ故に、自分が着想することについてどんな角度からもこのフォーラムで語られたことにつながってしまうため、いつどうやって引用するか、これが他の人にも知っていてほしい宝物のようなものであるが故にどんな時に紹介することが効果的だろうかなどと考えているうちに気づけば20年という月日が経過していたわけです。
しかしCOTA自身もまた考えや受け止め方に変化があり、「説明を増やして体裁を整えたものが必ずしも伝わるわけではない」というこのオタク展の展示様式そのものに立ち返るに至り、ちょうどビエンナーレから20年が経ったいま、ここに引用したいと思いました。
映像の題材が建築ではなく「表現」であること
本来であればこれは建築展であり、建築家の磯崎新さんや、展示責任者(コミッショナー)の森川嘉一郎さんが作り上げたように、建築か都市といった文脈で紹介するのが自然な流れだと思います。
しかし、私COTAが映像で導いていたことは「表現の規制」や「クリエイターが引っかかった時のヒント」として紹介しています。
これは「表現」という行為が、建築や都市、人格のすべての礎・源流となる最も大切な部分、根幹に含まれていることだからです。日本がヴェネチア・ビエンナーレの建築展で建築そのものではなく文化を紹介しているように、都市や建築といったものが1つの作品で完結するのではなく、その土地の文化や人格を意識するものであるといった上にあるように思っています。
さらにこれに私が紹介する意味を持たせるなら、「引用」という形にする以上は異なった視点・当人の興味あるものから始めたかったからです。当時とは変化している一方で、この先変化していっても大切な部分がこの中に秘められていると信じていて、ただ建築や都市デザインだけの文脈で過去のこととしてのみ取り上げることはできませんでした。
「大手企業が開発を行う資本主義的なものと並列して、趣味色の強いものが並行して存在する」という段階がさらに時間経過した先にある今の問題としても表現は切り離せません。
2004年から20年経ったいま、この時に森川さんが「色んなものが並行的になる」と言っていたこと、つまり多様性は先進国を中心に人間関係の前提として定着してきています。これはマイノリティの人格圏の形成というインターネットによる功績もあるだろうと思いますが、同時に多様性が広まって共通認識とできた結果として、インターネットのサービスに「おすすめ」や行動履歴に基づいてその人から好まれるものばかりを表示することで、異なる視点のことに無関心になってしまうフィルターバブルという現象。あるいは、同じ価値観のコミュニティにばかり浸っていることで異なる意見が排除されるエコーチェンバーといった問題も多くの人の意識の中で芽生えてきました。
しかしこれらはの現象はまさにフォーラムのあった2005年に発売された18禁ゲーム「最果てのイマ」でシナリオライターの田中ロミオ氏が表現している。「聖域」(自分達のコミュニティ)を作った人類は滅亡の危機を前にしても一枚岩となれずに苦しむという。まさに現在の現象がノベルゲームの前提条件として描かれていました。
少し強めに言ってしまうと、自分を殺してでも人としての尊厳(常識)を守るのか、自分の大切な聖域(人格)を守るのか。常識を守り過ぎればそれは人格を薄める。薄められた人格は、その人がその人として生きる特有の部分を無くしてしまう。すなわちネットワーク上では価値が薄く消されていくことになる。そのグローバルになったからこその葛藤というのは作品を展示したりイベントを開催するアーティストまで行かなくても、人によってはすでに個人レベルでSNSや配信サイトなどで経験している人もいると思います。そしてAI(人工知能)によってその傾向は強まるのかもしれません。
今回一番取り上げたかったことは2005年のオタク展のフォーラムであって、ここから先の未来への思考(COTAの解像度の粗い妄想)を含めると、真剣に見てくれる人ほど混乱を招きかねないと思いますので、今後表現していきたいと思っています。
いじみくも2024年現在、森ビルのヒルズ(虎ノ門ヒルズ)が行き詰まっているようです。COTAは2005年の段階でオタク展のフォーラムに興味を向けていたように。平成中期の匂いがする設計図をもとに量産しているように見受けられたヒルズも、現在の状況も彼らの台本通りであって、私のような平民には気づけていないさらに上層レイヤーの戦略が森ビルにはあって、この失墜も今後の展開のための演出の一つだとも信じたいと思います。
とにかく私にとっては1983年ごろにはすでに意図的な廃墟を建築した磯崎新先生と比べると、都市と建築の役割をごちゃごちゃにして都市の魅力を潰していることを今の森ビル・ヒルズから感じ、それについては数年前に六本木の街を歩きながら「六本木ヒルズ」と「東京ミッドタウン」を比べて話している記事と動画を掲載しています。
実体験としての警察からのオタクの偏見、Amazonの危険性
当時の背景を見ることのできなかった方々からすれば、オタク展を紹介する動画の中で私が言っている「オタクへの迫害」というのはちょっと大袈裟なのではないかという印象を持たれた方もいると思います。
私自身も今の視点で振り返ると一緒の印象ですが、しかしそれは時間経過と変化を経た今だからこそ抱くもので、当時の環境では気が気ではなかったことも一方で記憶に刻まれています。ここではそう感じても仕方がないと思っていただけるような、過去の具体例を挙げたいと思います。
より具体的な例としては、私よりもむしろ私の高校時代の友達の方がわかりやすい体験をしているのですが、その方の情報を詳細に書いてしまうのは迷惑をかける可能性があります。だからと言って背景を伏せて書いてしまうと、ここに載っている情報そのものの信憑性がなくなるので、大したことがないことだと思われても仕方ありませんが、COTA自身の実体験をここに載せたいと思います。
警察の話を載せますが、前提として誤解してほしくないのは、少なくとも私は自分の住む地域の管轄の警察官からは大変良くしていただいています。例えば深夜に隣接するコンビニであまりにも煩くて寝付けない日々を送っていて、店舗や本部に相談しても解決せず仕方なく警察に相談したところ「遠慮せずちょっとでも気になったら気にせずに連絡ください!」と仰ってくれて、以来連絡すると自転車で5分以内に駆けつけてくれるくらいの暖かい体験もしています。
しかしながら、だからこそ、別の警察署の別の課の話とはいえ、同じ私という人物であってもオタク的な面から見せた時にどういったことが起きていたのかという話としてここに手記を載せておきます。
当時の手記
2013年秋、住んでいた実家に「ある “おもちゃ”を買った人を対象に聞いている」と警察がやってきた。渡された名刺には「警視庁刑事部捜査第一課」の文字。聞けばその年の夏に、”おもちゃ” をつかって少女が被害に遭う事件が全く違う区で発生したらしい。現場にその手錠のおもちゃが残されていたという。
しまっていた おもちゃ をみつけて警官に見せた。2009年春ごろに趣味でゴシックロリータのの撮影の話があったのだが、その時に小道具として買ったのがこの手錠のおもちゃだった。覚えている限りの事を話し、身長体重などを聞かれた。撮影の経緯等も聞かれ覚えている内容で答えた。
私の部屋だけでなく一生懸命Macで画面を表示させてはパシャパシャと写真をとっていたので、事件当時のGPSデータを含む写真やログアプリ、さらには当日を知る人のことも情報になると思ってデータを差し出したが「それはいらない」と拒否されてしまった。ついでに判断材料にでもなればと思って声をかけたが、詳細も聞き入れない姿勢はいかに自分たちの軸で答え合わせの捜査しかしないのかと呆れた。
同時にそれだけ効率を求めているのだろうと思いきや、わざわざ「ゴスロリとかの撮影で手錠って合いますかね?おかしくないですか?」などと詰め寄ってくる有様だ。ゴシックロリータも自己中傷や束縛と親和性が高いのは自分の中では前提としてあったので、不勉強にも程があると思ったが、これこそ人種が違う人にとっては難しいことだろうと苦笑いで流すほかなかった。
被害者の方は可哀想だと感じるし、裏でこのような状況を書き綴ることさえ悪いと感じるが、そのおもちゃを買った都内の100人以上を聞いて回っているという。俺が当時知人の女性が変質者から被害にあって警察に届け出た時は、一緒に相談に行った俺が犯人として疑われ、その場も事務的で一瞬しか聞かれなかったことと比べてなんとも大違いだ。
調べられているとき心の中ではそんなことを思っていたが、思っていたこと表情に出したところで何か自分に利点があるわけでもなく感情を持つだけ無駄だと思ったので、Macの画面の写真を撮るという不可解な行動を続ける警察と雑談を続けた。
雑談を続けていて、その「東京都内の100人」が選び抜かれているような発言があり、それが販売店の話の中で話されていた。どこからその100人を選んでいるかといえば想像でも販売店の購入履歴が真っ先に思い当たるわけで、しかしそう考えるとレビューの多さを見ても購入されているであろう数に比べれば100人というのは少ない気がした。年代以外は事件で把握されていた情報と関連することも登録していないので、選び抜かれる中で心当たりがあるとすれば、それは前後に購入したものが関係していることになる。俺はこのおもちゃをAmazonで購入していた。
そしてこのおもちゃの購入の前に、18禁ゲームを購入したことがあった。100人を絞り込まれているのだとしたら、おそらくはエロゲーの存在ということになるだろう。第三者への情報提供が規約上どうなってるかは知らないが、捜査の際も事前に顧客に声もかけず、殺人等の緊急性もないような事件で顧客の購入情報を警察が検索できるようにしていたと想像できる。そう考えていた頃には撮影も終わっていいたが、部屋で撮影しているものもそう言ったものを対象とされていたような気もする。
終わり際に、もし犯人が逮捕・解決したら教えて欲しいと当然の要望を伝えたら「無理です」と一蹴された。断る理由を聞いても無視された。
その後、そのことを話した友達から「これかな?」ともらった新聞社のニュースサイトに掲載されていた情報が警察が話していた事件の全くその通りで、やっと1年後くらいに事件の詳細と犯人逮捕を知ることになりました。
ポケットに還った秋葉原、動詞化した「オタク」
秋葉原はどうなったか。ここではこの展示やフォーラムの後といまを結ぶ秋葉原とオタクとその環境の変化のお話をしたいと思います。
まずオタクという単語自体がより一般化しました。2004年当時は世間にオタクという言葉にネガティブなイメージがあり、オタクたち自身も若干自重気味に使っていました。
当時「電車男」という2ちゃんねる(電子掲示板・匿名SNS)を元に書籍化したものが話題になりました。これはオタクとの恋愛を描くという当時としては新しい視点のものでした。しかし、この中で男の主人公は、女性と付き合うにあたってオタク的なセンスから脱する葛藤も描かれています。つまりこの当時はまだオタクはそのままの形としては認められ難いものだったといえるでしょう。
ところがその後はややポジティブな意味合いさえ込めて広い範囲に使われています。この辺の「ポジティブ」や「ネガティブ」というものへの姿勢自体、「陰キャ」「陽キャ」といったキャラクターの分け方が生まれ、自嘲する者同士が結束し出すなど、人間関係の築き方そのものがややオタクよりにシフトしていったような気がします。
さらに2024年現在は学生を中心に「オタクする」という動詞まで見受けられるようになりました。これは推し活などのイベント参加を意味することが多いようですが、中には趣味の買い物にも使われるケースまで見られます。
そういった流れは、やはりインターネットの普及が大きいようです。趣味の情報収集も、購入も、作者をフォローして追うことも、スマホという板一枚でできるようになりました。
2005年前後にはスマホも登場し、携帯電話・PCといったものがより普及していくことは見えていましたが、それによって行動様式が変わるだけでなく、人間関係の築き方まで変化を与えるというレベルまでくると詳細な想像は少ししづらかったように思えます。映像のフォーラムでは斎藤氏が「岡田斗司夫らが高度で洗練された文化的なものにした」と述べていましたが、ましてやオタクというものが「恥」どころかファッションになるまでに至りました。
“隣の席の子が活発で面白いから私は引き立て役に回ろう”など。元々日本の場合は学校のクラスでもその人のキャラクターが形作られるように、ネットによってイメージとしてはクラスが巨大なものとなった部分もあると言えるかもしれません。
かつてのメディアの主流はテレビであって、学校では特定の番組の話題でそのクラスが話題が持ちきりになるという状態がありました。それも配信サイト・配信アプリの登場などで容易に表現者(配信者・イラストレーター)になることが可能になると、さらに趣味・ガチ恋(恋愛)が細分化や多様化されていく中で、現実世界ではプライベートの領域と重なることで公開することを避けていく人たちも生じています。
表現する人(中の人)の性別が表現する側の性別と異なるバーチャルライバーなどがわかりやすいですが、そういった表現側の影響から思想を持った平等教育的なものとは別に、自然と女性的・男性的な考えというものも変化が出始めているように思います。これはただ男女が平等になる方向に行っているというよりは、それだけではなく逆にドミナント・サブミッシブ(ドムサブ、飼う・飼われるという関係)のように見方によってはかつての姿に近いような方向に向いているものもあり、漠然とした印象ですがそれぞれが在り方を探っているような感じがします。
「秋葉原」において言えば、この都市はスマホなどコンピューターの中心地(メッカ)でした。しかしそれが他の都市以上に対立関係となっているように見えます。多様化・細分化が進んでいったことで、自分の手のひらに自分好みの都市を形成していくことが可能になっていきました。
当時の秋葉原では、今を上回る「やばい店」「ヤバい人」がいたように思います。でもその人が理解できずにヤバいと思う他人は、自然と視線を外してみて見ぬふりをしていました。どうしてかというと、自分もまたヤバい人のひとりかもしれないという認識があったからだろうと思います。
人格が都市を作るというのは当時まさに最終形態のようなものに感じていましたし、そういった都市があちこちで展開されて増えるかもしれないという妄想もありました。しかし都市部に秋葉原を超える「趣都」は生まれていません。
この人格都市が形成されたのは、前提の人々の共通認識として、「自分が自由にできるのは自由にさせてもらっている前提があるから」で「他人の自由を侵害しない」、「創作できる人へのリスペクト」があるということ。これが無いと、他者や一次創作者、あるいは細分化された人々を追い込む結果となるわけです。
そういった認識が薄れてくると、ただのエンターテイメントとして新たな資本主義に消費されたり塗り替えられてしまう。資本主義的なものに移行すれば、あとは効率化の話になってきて、本来の色味が失われてくる。そうすると集う人たちも魅力を感じなくなります。
秋葉原はオタクの人から見れば本当の廃墟になりつつあります。一方では海外からの旅行者・インバウンドには全く同じものが未来的に写っているようです。考えてみれば世界各地にある観光都市も、過去の文明をなぞるように人々は集っているものです。
いま、あの時のオタクたちはその探究心を別の方向に向けて行ったり、クールジャパンなどの動きとともに秋葉原という自分たちの聖域が世界に共有されて認知されて変容していくことから逃げるように、散っていったのでしょう。
ポケットの中にある端末は、これから自分の趣向の通りに見える世界に成長するかもしれません。そうして相手の容姿や喋ってることまで自分好みになるほど、都市などの公共空間は「普遍を教えてくれる存在」が色濃くなる。都市はより神聖な領域になっていくのかもしれません。この続きはいずれまた、
自分の中であらゆることを見直すきっかけにしてくれたこのオタク展やフォーラムは、今でも趣味で思考したり仕事で発想するときの基準点となっていて、時を重ねるごとに強くなる感謝の思いがあります。ありがとうございます。
2022年に亡くなられた 磯崎 新 先生、2006年に亡くなられたコミックマーケットを形作った米沢 嘉博 さんのご冥福をお祈りいたします。小さな小さな存在ですが、影響を受けた一人として、今でも心の中に生きています
資料
年表
主に映像中に引用した音声に基づく
ロンドン。前身となる博覧会は1798年フランス革命の時期のパリで開かれたもの。
アテネで開催。国家に分かれて競い合う形式
ドイツの建築家 ブルーノ・タウトが「日本インターナショナル建築会」の海外客員の1人として来日し、それまで主流だった日光東照宮的な建築を将軍芸術と呼んで嫌悪。桂離宮や伊勢神宮を皇室芸術と呼んで持ち上げる。
吉阪隆正の設計でルコルビュジエの様式
1968年は、世界各地で暴動や大規模デモ、暗殺などの大事件が多発した年でこの時期は「1968年世代」と呼ばれることがある
大阪府茨木市。自宅近くの大阪万博会場跡地で遊び育つ
日本万国博覧会。テーマ館展示プロデューサーとして岡本太郎を委嘱し、「太陽の塔」が建てられる。
旧日本消防会館ビル内の会議室。32サークルが出展し、参加者約700人。自立と分裂騒動を経て米沢嘉博氏が1980年〜2006年に代表を務めた。
2013年夏に開催された「コミックマーケット84」ではサークル参加者数は約3万5000スペース、一般参加者数は59万人
中森はコラムニスト。「コミックマーケット」に集うSFや漫画・アニメなどの若いファン達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄した
日本のポストモダン建築の代表的な作品
マスコミによる「オタク」の印象操作が行われ、以後差別の風潮を作る
ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で開催された日本紹介展
阪神淡路大震災。展示責任者(コミッショナー)は磯崎新氏。
ヤマンバファッション・ガングロ。展示責任者(コミッショナー)は磯崎新氏。妹島和世氏も関わる
幻冬舎より刊行。2016年に精神科医の斎藤環が「21世紀の暫定名著」の一冊に選ぶ
成人向け漫画のわいせつ性をめぐる裁判
展示責任者(コミッショナー)は森川嘉一郎氏。精神科医の斎藤環が現代美術家の開発好明と共同作品「オタクの個室」を出展
映像中に引用した音声
2005年日本国際博覧会が開かれる。
2008年より、明治大学に新設された「国際日本学部」の准教授に森川嘉一郎氏が就任。中心となって推進してきた同館をオープンさせる