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趣味とはなにか。内緒の手帳

COTA
このような話を「言葉」からみる

映像を見ても受け取り方が難しい方に贈ります

  • 認められたいという気持ちが重たくてなんとかしたい

    認められたい人へ、承認欲求を満たす方法” より
  • 承認欲求が強い人がそばにいるのが苦しいです

    承認欲求が強い人に困っている” より

おじいちゃんは同じ趣味仲間に誰とも繋がらなかった。展示会は一度も出さず、基本的にはおばあちゃんと俺以外に写真を見せることもなかった

「趣味」とはなんだろうか。インターネット上からみた場合、趣味という考えがどれだけ曖昧な上にあるかを感じることが増えている。

現状、ネット上は趣味でさえも「数字」で評価されてしまう。評価がされていないものはどれほど熱量が強くても自分と興味関心が似ていても知ることが困難だし、趣味を発信する側もまた評価がモチベーションになる以上は数字が低いことで発信を控えてしまう。

インターネット普及前でも例えばものづくりであればコンテストに出したりもしただろうし、共通の仲間と楽しむことはある。

おじいちゃん
小金井公園で満開の桜とおじいちゃん

大好きなおじいちゃんからの影響を強く受けた自分にとって、つながりを求めることは趣味と言えるのか疑問なところもある。誰かと繋がればウケを意識したり、仲間の誰かがそうしてるなら自分はこうしようという意識が働くこともあるだろう。評価されるために頑張ることも含めて趣味にするのも一つではあるが、今はそのことが大切にされすぎているようにも思う。

おじいちゃんは理由は好きなことをやる以上、評価されることを嫌うこともあったようだ。そうしておじいちゃんは同じ趣味の仲間に誰一人とも繋がらなかった。撮影会こそ行ってもコンテストは一度も出さず、基本的には自作のアルバムを自分で見返すか、おばあちゃんと俺に写真を見せるくらいだった。

とにかく好きなものを撮って撮って撮りまくった。そうしておじいちゃんの写真部屋には数え切れないほどの写真がある。自分の手元に持ち出して週に100枚はスキャンをしているが、1年が経とうとしてもいまだに先が見えないほどだ。コンパクトなカメラやスマホの今の方が簡単に撮れるわけだが、フィルムを買ってアナログの重たい一眼レフカメラを常に肩にかけ、毎週写真屋さんへ現像しに通っていた。

そんな日付や位置などのメタ情報がないアナログの写真を取り込むにあたって、データベースになっているものがある。それが動画中の「内緒の手帳」だ。

小学生の頃も変わらずにおじいちゃん・おばあちゃんの家(花の家)に行って川の字に寝ていた。21時過ぎに寝ようとすると、おじいちゃんはお勝手(ダイニング)の棚の上にある手帳に手を伸ばした。その日に行った場所のパンフレットをじっくり見て、何かを書き記していた。

俺はおじいちゃんのその行動が気になってしかたなかった。だからこっそり見ようとしたが、怒ることのないおじいちゃんが「これっ」と笑いながら言って見せてくれなかった。なんでも教えてくれてなんでも見せてくれたから余計に気になった。

手帳から見えたこと

おじいちゃんが亡くなったあと、ボロボロのカメラバックの中には俺があげた目を拭くウェットティッシュと同時に「あの手帳」が出てきた。中身を見て驚きを隠せなかった。

まず住所や名前など書類に書く文字以外はおじいちゃんは文字を書くことができないと聞いていたからだ。なぜならおじいちゃんは学校に行くことがほぼできなかったからだ。おじいちゃんは農家の二男に当たるが、三男から先の若い兄弟にはおじいちゃんと長男が働き通すことで大学に行ってもらったようだ。

この話はいずれするとして、もう一つ。それは出かけていた数だ。

おじいちゃんは聞かれないと自分からのことを答えない。だから、自分が子供の頃にも会ってない合間の時間でこれほどまでに出かけていたことをはじめて知った。よく出かけていたこと、撮影のための旅行の際はおばあちゃんが宿や切符を手配していたことは聞いたがここまでとは思わなかった。

17年分のデータを下記にまとめている。

17年分の手帳の中身
一行日記
一行日記

自分を愛するのが趣味

人間というのは他人を気にしながら自分と向き合うと苦しくなるものだ。しかし趣味は自分と向き合うことで自分自身を愛することができる体験だと思う。

おじいちゃんの足跡を残された写真や手帳を見ながら、趣味ってどうあるといいのかを考えさせてくれる。

手帳
COTAが一人デ家にくる

そんな手帳を手にして、2021年の春、おばあちゃんが実家にやってきた。この話の続きは次の機会にまた。

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散りばめられた思考の欠片
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