さいたま盆栽町「優しい庭園」実験に参加しませんか 28
成人したばかりの頃、盆栽をはじめました。本当にその世界が全くわからないまま飛び込みました。当時の盆栽のイメージはお堅く、年配の方ばかりだったように思います。 この世界が、他の趣味と大きく違うのは、完成形という満足、動物のような明確な終わりというものがありません。植物という下手をすれば自分よりも長い時間を生き抜くものを扱います。 しかし、その小ささが故に気を抜くとあっけなく枯れます。水も肥料も太陽光も剪定も、あげすぎてもだめになる。 だからのめりこむほど、「自分が育てられている」という感覚になっていきます。わかったような気持ちになってあぐらをかくと、天候によって駄目になる。枯れた、ということに対しての言い訳はできません。 だからでしょうか。盆栽を扱う人の多くは、実際のところ偉そうな人は見たことがありません。また謙虚や表面の優しさを武器にして幅を利かせようとする人にもあったことがありません。 また日本の山々が緑に恵まれているのも、人の手で間伐を行ったからこその結果です。それをしなければ木々というのは生えません。 優しさというのはその場を取り繕えることではなく、ずっと絶え間なく、今に満足して安心するのではなく相手を安心させるために良い加減を見極めることなのだろうと。 自分がどうしていいかわからなくなったとき。 ここにくると、黙って教えてくれているような気がします。 00:00 盆栽ドーン 01:09 タイトルコール 01:56 通話失敗 02:14 ユジノ・サハリンスク方面へ向けて出発 03:43 大宮と発車メロディ 05:36...