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二輪草
子供は裸足で歩き十数世帯しかない村。いまと同じ東京とは思えない時代にふたりは生まれる。幸せは目指すものではなく、いまを幸せと感じられる心だと後ろ姿で伝えてくれた。そんな姿勢が世界の誰かに生き続けてほしいと願って。ふたりをまとめた
おばあちゃんの哲学
だってしょうがないじゃない
どれだけ欲深くあっても良い、だけど徳がないとね
他人をコケにしなければいい
思えば旅行をするときも親類の集まりでも、他人に期待を向けずに笑って生きるおばあちゃんは時に「変な人」として扱われやすかったように見えた。しかしそういった扱いを受けても動じない考えや、同じ人の中にも好きな部分と嫌いな部分があるという見方は、長く付き合う人には安心感を与えて大切にされやすい面もあった。
考えを貫きながら誰ともぶつからず、自分が大切にしてくれる人を自然とふるいにかけているようにも見えた。
あの人は偉いんだね
それでも他人に対して苦手な面を知った時は、嫌な人とか悪い人とは言わなかった。必ず「偉い人」と口にした。これもまた言われた側は悪口を言われてるとは気付きづらい。
まっすぐだけど、だからと言ってぶつかることは「みっともない」と避ける。そこにおばあちゃんとしての哲学があった
ふたりの歩み
おじいちゃん
農業の傍、暇ができた時には仲の良かったお兄さんと東京の繁華街や闇市へ。新宿に自転車で行ったときは警官に怒られる。
このあたりでハーモニカのほか、写真の趣味を始めるきっかけとなるカメラを浅草で買う。それがいつしか周囲でカメラ好き農家として周囲で知られるようになる
おばあちゃん
下里の方の学校まで通う。裸足で歩くこともあったくらいだったというが、それをみっともないと注意された覚えもあるのだとか
新型コロナで振り返る結核流行当時の話。
おじいちゃん
17歳〜18歳くらいの時にラジオが家に来る
おじいちゃん
おばあちゃん
隣だった畑でよく会うようになる。おじいちゃんがおばあちゃんの家を手伝う機会が多く、おばあちゃんのお母様から気に入られたそうだ。お互いが休みの日のデートではおばあちゃんは着物を着て中央線で山の方(奥多摩や高尾?)へ行き栗拾いなどをする。時に途中で喧嘩をして怒ったおばあちゃんが国鉄(現在のJR東日本)中央線の貨物列車に乗せてもらい先に帰ってしまったお話も。
おじいちゃん・おばあちゃんによる戦争の話
主にとうもろこしを食べ、戦地ではきゅうりのお味噌汁を食べた。抗うことはなく、洗脳されていたようなものだったという。仲間が死んだ話などをYoutubeで紹介
おじいちゃん
おばあちゃん
結婚
おじいちゃん
家族での旅行はもちろん、蒸気機関車や戦闘機、鳥や花などを記録するために泊まりがけの一人旅も増え、毎日のように外出する
おばあちゃん
おじいちゃんの旅行の手配は全ておばあちゃんが駅前のスーパー内にある旅行会社で行っていた
おばあちゃん
深夜に起き上がり居間にある箱を取り出してお煎餅を食べ出し、綺麗に仕舞ってから再び寝る事件が起こる。
以後そのようなことはなかったものの、この頃よりボケないために漢字を覚えたり計算や絵を描いたりすることを積極的に始める。それは亡くなる1ヶ月前まで続いた
おじいちゃん
おばあちゃん
COTAの家族の誘いで箱根へ旅行に行く。
おばあちゃん
退院が厳しい雰囲気を察した時、初めて弱音を言う。しかしそこで区切りをつけたのか、以後は亡くなった時も普段通り過ごしていた
翌年にお墓が決まり2018年11月18日、一周忌の際に小平の地に埋葬した。
おばあちゃん
宅配ピザに感動。またコンビニのものに強い興味を持って色々と試す
おばあちゃん
2月12日お昼頃。昼前に介護士が全身を拭き終わった直後、本人が望んだ死に際そのままに、そーっと息をひきとる
羽田で営まれた。お骨は四十九日の4月1日桜の咲く中、小平の地でおじいちゃんの居る墓へ埋葬した。