生きる力をくれるひと

子供は裸足で歩き十数世帯しかない村。いまと同じ東京とは思えない時代にふたりは生まれる。幸せは目指すものではなく、いまを幸せと感じられる心だと後ろ姿で伝えてくれた。そんな姿勢が世界の誰かに生き続けてほしいと願って。ふたりをまとめた。

おばあちゃんの哲学

だってしょうがないじゃない

明るく笑うおばあちゃんの口癖は、人生というのがうまくいかないことを前提としている見方に現れていた。そんなおばあちゃんは、亡くなる1ヶ月前まで塗り絵をしたり計算をするなど学ぶことを欠かさなかった。「しょうがない」という言葉に至るまでの努力、それでも駄目だったという失敗を認めること、それを「徳」というのだと思う。

どれだけ欲深くあっても良い、だけど徳がないとね

おばあちゃんは父がいないシングルマザーの環境で生まれ、貴重な男手であった兄も結核で亡くした。元々はある程度恵まれた家系だったようだが、そんな環境で厳しくなっていく状況で生き方や様々な人間関係を目の当たりにしただろう。自分と向き合うことも人一倍あったように思う。

いろんな考えの人に囲まれると、人それぞれの考えを認めないといけなくなる。そのため普段、自分の子供や孫を含めた他人に対して「こうした方がいい」と語らなかったが、人との関係で話をするとおばあちゃんはこう話す

他人をコケにしなければいい

思えば旅行をするときも親類の集まりでも、他人に期待を向けずに笑って生きるおばあちゃんは時に「変な人」として扱われやすかったように見えた。しかしそういった扱いを受けても動じない考えや、同じ人の中にも好きな部分と嫌いな部分があるという見方は、長く付き合う人には安心感を与えて大切にされやすい面もあった。

考えを貫きながら誰ともぶつからず、自分が大切にしてくれる人を自然とふるいにかけているようにも見えた。

あの人は偉いんだね

それでも他人に対して苦手な面を知った時は、嫌な人とか悪い人とは言わなかった。必ず「偉い人」と口にした。これもまた言われた側は悪口を言われてるとは気付きづらい。

まっすぐだけど、だからと言ってぶつかることは「みっともない」と避ける。そこにおばあちゃんとしての哲学があった

ふたりの歩み

享保12年 1727年まで

おじいちゃんの先祖

埼玉県の騎西の集落より、荒野だった野中(花小金井のこの地)へ移り開拓する。この地の開拓で指揮をとったのが花小金井駅前にある黄檗宗・円成院であり、以来祖父の家系は黄檗宗派となる

おばあちゃんの先祖

享保の改革によって先祖が柳窪(東久留米)へ入植した。

なお向かいの奥住さんの先祖である奥住又右衛門さんが旅先から持ち帰った穂からできた「柳久保小麦」は、屋根材からうどんまでこの地区で利用された

大正15年2月24日

おじいちゃん

北多摩郡小平村野中新田与右衛門組(現在の花小金井)に二男として生まれる

昭和2年1月5日

戦前の本家・農作業の様子
おばあちゃん

おばあちゃんが生まれる

Youtube – COTA距離感泥棒
結核で兄を亡くした話

昭和10年ごろ

カメラとの出逢い

おじいちゃん

農業の傍、暇ができた時には仲の良かったお兄さんと東京の繁華街や闇市へ。新宿に自転車で行ったときは警官に怒られる。

このあたりでハーモニカのほか、写真の趣味を始めるきっかけとなるカメラを浅草で買う。それがいつしか周囲でカメラ好き農家として周囲で知られるようになる

おばあちゃん

下里の方の学校まで通う。裸足で歩くこともあったくらいだったというが、それをみっともないと注意された覚えもあるのだとか

Youtube – COTAまた、会えますように。
新型コロナで振り返る結核流行当時の話。

1940年ごろ

おじいちゃん

17歳〜18歳くらいの時にラジオが家に来る

昭和10年代

2人の出会い

おじいちゃん
おばあちゃん

隣だった畑でよく会うようになる。おじいちゃんがおばあちゃんの家を手伝う機会が多く、おばあちゃんのお母様から気に入られたそうだ。お互いが休みの日のデートではおばあちゃんは着物を着て中央線で山の方(奥多摩や高尾?)へ行き栗拾いなどをする。時に途中で喧嘩をして怒ったおばあちゃんが国鉄(現在のJR東日本)中央線の貨物列車に乗せてもらい先に帰ってしまったお話も。

昭和20年前後

第二次世界大戦

おじいちゃん
召集された祖父
祖父

おじいちゃん・おばあちゃんによる戦争の話

主にとうもろこしを食べ、戦地ではきゅうりのお味噌汁を食べた。抗うことはなく、洗脳されていたようなものだったという。仲間が死んだ話などをYoutubeで紹介

Youtube – COTA甘える勇気が世界を救う

昭和28年7月14日

おじいちゃん
おばあちゃん

結婚

昭和55年 (1980年) 5月

念願の新しい家(花の家)が竣工

おじいちゃん

大家族で暮らすのが夢だったおじいちゃんが敷地内に念願の家を建てる

おばあちゃん

昭和60年前後

病気と孫の誕生

おじいちゃん

喀血を起こすことがあり、がんを疑いが出たため大塚のがんセンターへ通うも決定的なことがわからない。やがて清瀬の東京病院にて非定型抗酸菌症(非結核性抗酸菌症)であることがわかる。レントゲンに肺が白く写るなど。死を意識するようになったためか年金生活も相まって旅行好きとカメラ趣味が加速、これからしばらくして一行の日記を書き始める

おばあちゃん
孫の誕生

この辺りで孫の私 COTA が田無の病院で生まれた後に半年間祖父母の家にいた後、両親の住む東京都内の別の場所へ移る。性格的には小学校入学前でも黙っていて決めたことを守り抜く子供らしさがない孫だった。

距離も離れていたものの、おばあちゃんは子供の元気さが苦手であり、おじいちゃんは言うことを聞いてくれない人と距離を置いてしまう性格柄、よく一緒にいた。

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写真への傾倒

おじいちゃん

家族での旅行はもちろん、蒸気機関車や戦闘機、鳥や花などを記録するために泊まりがけの一人旅も増え、毎日のように外出する

おばあちゃん

おじいちゃんの旅行の手配は全ておばあちゃんが駅前のスーパー内にある旅行会社で行っていた

おせんべい事件

おばあちゃん

深夜に起き上がり居間にある箱を取り出してお煎餅を食べ出し、綺麗に仕舞ってから再び寝る事件が起こる。

以後そのようなことはなかったものの、この頃よりボケないために漢字を覚えたり計算や絵を描いたりすることを積極的に始める。それは亡くなる1ヶ月前まで続いた

平成23年 (2011年)10月7日

入院

おじいちゃん

入院。ちょうど倒れた日に私 COTA は祖父母の家に行く予定で、花小金井の駅を降りたところ救急車が止まっていたことで気づき一緒に乗って病院へ向かうことになった。これからしばらく後より COTA は毎週のように通い出す

平成29年 (2017年)11月21日

最期

おじいちゃん

夏に入院。11月21日深夜に肺炎の悪化で亡くなる。

最後に祖父母の家へ行った6月ごろ、珍しく家の外まで見送ってくれた際に言った言葉は「 COTA ともっと話しておきたかった」。

おばあちゃん

退院が厳しい雰囲気を察した時、初めて弱音を言う。しかしそこで区切りをつけたのか、以後は亡くなった時も普段通り過ごしていた

平成29年 (2017年)11月25日

葬儀

翌年にお墓が決まり2018年11月18日、一周忌の際に小平の地に埋葬した。

令和2年 (2020年)1月19日

はじめて宅配ピザを食べる

おばあちゃん

宅配ピザに感動。またコンビニのものに強い興味を持って色々と試す

令和2年 (2020年)5月

花の家を離れ最期のとき

おばあちゃん

花小金井を離れ2年弱 COTA の実家で過ごす。

実家で飼っていた猫も静かながら物怖じしない性格であり、おばあちゃんに時間をかけてゆっくり近づいていったこともあってか大嫌いだった猫のことに関心がいくようになり最後は「好き」と言うようになった

令和5年2月

最期

おばあちゃん

2月12日お昼頃。昼前に介護士が全身を拭き終わった直後、本人が望んだ死に際そのままに、そーっと息をひきとる

令和5年2月

葬儀

羽田で営まれた。お骨は四十九日の4月1日桜の咲く中、小平の地でおじいちゃんの居る墓へ埋葬した。

おじいちゃんの好きな曲