放たれる言葉の重みと幸せと
伝える手段には様々あります。絵画、音楽、デザインなど。中でも一般的なヒトにとって、日常生活では言葉ほど重要な手段はありません。
言葉の使命はヒトからヒトへ情報や感情をバトンタッチしていく「伝達」、インプット側の物。もうひとつは、そこから集まってきた情報をかき集め、その言葉の組み合わせによって新しい「発想」をヒトに与えるアウトプット側のもの。そういった言葉のほか、物語を基本として口調や身振りを使い共感や感情を与える人たち。それが噺家の方々です。
その場の空気を活かして職人技でありながらも知識を必要とし、またオリジナルの部分も併せ持つ。ただし使うのは身振り手振りと小道具のみとなります。
噺家の何が凄いかというのは、言葉のみを使って説明することは難しい。言葉を一番の武器としながら、言葉と言葉の間、その場のひらめき、表情やしぐさなど言葉以外の部分こそが噺家の強さであると思うからです。
古典と新作
地域差を除くと落語はおおまかに古典落語と新作落語の二つがありその違いは、時代背景だそうです。古典が戦前まで、新作が戦後からということになります。特に古典落語などは、お話としては同じ内容をやるわけですが、その場・その時代・その噺家によって違います。
同じ話を何回も聞くことについては、情報が多くて新しい情報こそが楽しい今の時代はちょっとおかしいことだと思われるかもしれません。
落語自体が時代時代でその時の流行を扱い生活の一部に入り込むように少しずつ変わってきたようで、江戸の落語を大切にしている今の方が変わっているのかもしれません。
古くから門下を生みながらも師匠から弟子へと代々伝わってきたひとつながりの落語が、古典と新作の意識を分けてしまう。それだけ戦後の日本の成長や欧米化は激しかったと言えるのかもしれません。
一方では、本来の噺家では飽きてしまうような変化も、代々受け継がれる内に研ぎ澄まされ、一つの話をすることに長けて、上手くなってきたのかもしれません。
実際に聞いてみると全部とは言い切れないものの、二度目三度目によって感じ方は変わってきたりします。
関西では上方落語が道ばたで行われたというトークが元となっていると言われているように、本来落語というのはその口さえあればほとんどどこでも行えるわけですが、中でも「寄席」という場は、江戸時代の雰囲気を楽しめる場所でもあります。
今回はそんな寄席のひとつ、新宿の末広亭で「桂歌丸噺家生活65周年記念興行」に行ってきました。歌丸師匠の落語の他、桂歌丸師匠、桂米丸師匠、三遊亭小遊三師匠らによる座談会も開かれました。
落語家による笑点
そのちょうど前日には、歌丸師匠がテレビ番組:笑点の司会者を引退されるという発表がされ、トップニュースとなりました。そのこともあって、寄席は立ち見客まで出る満員御礼でした。
テレビ番組:笑点も今年で51年目を迎える節目であり、幼少から見てきた私としても少しばかり感慨深い思いがあります。
いつから見ていたのかは覚えていませんが、先代5代目の圓楽師匠が司会をされていてあとは今と大方は同じ方々(小遊三師匠、好楽師匠、歌丸師匠、今の円楽師匠、こん平師匠)が並ばれていた時分です。
今でさえ落語が全てすっきりと飲み込めるような頭はしていませんが、笑点による影響か、学生時代より音楽プレイヤーに落語が入っていた事もありました。
このテレビ番組笑点の大喜利のコーナーは、まさに落語と密接で、落語家の方々がやられているのはもちろん、流れを汲み、その時代やその場の空気を活かし、キャラクターを出し、それを瞬時に行う。
座布団は道具の一つ
司会者は毎度「良い答えには座布団をあげます。悪いと取ります。」と言いながらお題を出すわけですが、その良い悪いというのは実に行き当たりばったりであり、道具の一つになっています。そして座布団を取られる事が出演者にとってすなわち悪いことでは無く、場合によっては取られてこそという時もあるわけです。
例えば、回答の流れで司会者を罵る、そうすると当然悪い答えとして座布団は取られますが、続く回答者もまた司会者をなじる。すると更に多くの座布団が取られる。ですが、噺家からすれば良い流れを作っているわけで、座布団は取られど噺家冥利につきるわけです。
現にあからさまな競い合いを嫌ってか、「座布団が10枚貯まった」時の景品はダジャレによるたいしたことのないものになっています(盛り上げるために司会者は「ものすごい賞品」と案内しますが……)。
寄席への回帰
そもそもは戦後テレビに客を取られ寄席に人が来なくなってしまった時期に、名前を売るために笑点という番組を始めたなんていう話も耳にします。いまをネタにしながら噺家の方々がご自身の力を活かす、落語の要素をかみ砕きつつ、楽しませてくれる。
春風亭昇太師匠が新しい司会者に決まり、何かと話題が絶えない笑点ですが、そんなテレビ番組を見た方の一部でも寄席や落語会に向かわれる事が、恐らく出演者の方々の願いだと思いますし、また個人的にもその時代の流れと変わらずに回帰できる場所があることは素晴らしいことだなと思います。
差別する意図はありませんが、今回噺家のどなたかが冒頭で高座から客席に向かって仰っていました。
「英語で一人称は I (アイ)。日本語は一人称ひとつでも沢山呼び名がある。それ故に習得は難しかったりする。だけど、人を呼ぶ言葉しぐさ一つで関係性が見えてくる。背景が見えてくる。これは日本語が分かる人にしか、しっかりとは伝わらないので楽しめない。あなた方はその特権があると思ってください」
ノート
桂歌丸「紙入れ」
三遊亭小遊三「三遊亭圓馬師匠のお話」