御礼と半分の遺言と

この2年間で誘われた友達は1人だった。これは友好人数をステータスに生きる人にとっては相当な恥晒しになるかもしれない。自分の配信をきっかけに友達を誘わずに居たらどうなるのかを見ていた結果だ。気になって自らを実験台にしていた。
これを自分の中で良い・悪いとか、結果を見て変えたいとかもない。この数値自体は自分のこれまでの形を見れば当然であり、大好きなおじいちゃんも最愛のパートナーを除けば1人だった。そんなおじいちゃんに対するおばあちゃんの言葉もあって、オレの場合は子供の頃から自発的に行動し、誘い、創り、トラブルも楽しんできた。ネットで新しいサービスが始まれば誘い、学生時代も随分とまわりを振り回してしまった。友達の懐の大きさに「この人は仕方ない」で受け入れてもらい、逆に新しいものに気づけたと感謝してもらうこともあった。それくらい素晴らしい人を友として選んで来た。
ところが社会人になって時間が経ったいま、同じ人でも以前より明確に「面倒だ」「決まったものがいい」という雰囲気に変わったことを感じる。オレから見ると、それは思い通りにいかないことを恐れて過去を見て答え合わせを繰り返しているように見えて悲しく、逆に周囲から見ればいい歳をしてるのに幼少期と何ら変わらないオレといることは苦しいのだろう。
オレも友達もそれぞれはそのまま進んだだけで大きくは変わってないように思う。オレは昔から己で決めた執念が強く、周囲は時間が経ち自分を固めていく中で同じ歩幅でついていくことはできなくなるわけで、離れるしかないだろう。そうして生まれた結果が、2年間で1人のお誘いというわけだ。
社会的な見方をすると友達は当たり前に過ごしているまでで、いうまでもなく自分の核心を動かすくらいなら消えたほうがいいと決めているオレの問題となる。そんな自分の人間性に問題があることは中学の時には思い知っていた。
ここに来て、なぜおじいちゃんはあの優しい性格と繊細な心を持って周囲から慕われていたのに、人と関わっていなかったのかがようやく腑に落ちている。おじいちゃんは静かな、静かすぎるくらいの革新的であり冒険家だった。誰かに伝える必要もないのだから、周囲からは自然と静かに見える。
自分もきっと同じ道をいくのだろうと、それは悲しいわけではなく、幼少からおじいちゃんの背中を見て望んだ道であって嬉しさもあり、一方では現実として世間的にはマイナスになりそうな面もこうして現れるというだけの話だ。つまり悟ることができてきた気がする。
2017年冬のおじいちゃんのお葬式は他の家に知らせない家族葬だったが、出棺に気づいた周囲が続々と駆けつけ惜しんでいた。おじいちゃんが死ぬ1年前に笑いながらオレに言っていた。
「みんな死んでから来るなんだよな」
オレはこれだけ周囲を振り回しながら、最後の最後に友達にもわがままを言えないことが多い。それを変えることはそんなに難しいことじゃない。他のことでそうしてきたように、ふざけた感じで実験を言い訳にでもすればいい。だけどそこはオレはしない。中途半端に自分から甘えれば、それは人間関係として虫が良すぎる。そんなかつて受け入れてくれた友達を大切にするためにも、気付かれないように黙って死んでいきたい。自分を譲れない自分ができる唯一の気持ちだ。
そんな生き方の一方、3月に2人から誕生日プレゼントをもらった。思ってくれている気持ちをギフトを用意するという行動で表すということは簡単そうに見えて、言い訳を見つけてはしなくなるものだから、なかなかできないものだと思う。
しかも変な話で、うち1人は高校時代からずっとしてこなかったのに、急にここ数年プレゼントのやり取りをしている。その友達は取り壊される祖父母の家の雑草を抜いてることを知って日焼け止めをくれた。粋な計らいだ。
しかし最近は表面上で見ればプレゼント交換になっている気もして、考えてくれていることが伝わってくるからこそ形式的になるのは許せないような気持ちもあって「生きてることをプレゼントにしよう」と伝えたら、心に響かせてしまったようで結局これはこれで恥ずかしい思いをしている自分がいる。
世間を見渡せば何でも悪いように受け取る人を多く見かける。それなのに、人のことを良いように受け取れる人がいる。数字では見えない守りたい関係がある。もうそれで十分すぎるだろう。
おじいちゃんの家で一緒に雑草を抜きながら、おばあちゃんが言った「この場所はどうなるんだろうね?」という言葉を受け止めて。今週も雑草を抜きに行く。この場所はおじいちゃんとの約束も虚しく売り飛ばされていることが決まっている。親戚ではごたごたしているようだし、身内でも親からは「結婚すれば売り飛ばさないけど遅い」と会うたびに言われるが、周囲への気持ちが足りないなと感じるその言葉に「そうですか」と笑って返している。
ふと自分から出る言葉の端々から2人の気配を感じることが増えてきた。おじいちゃんとおばあちゃんが自分の中に生きている。2人は死んでから大きくなっている。これもまた、自分への贈り物。
明日なんか知らず夢を見る。不安なんかねえ。浴びせかけられる罵詈雑言、向けられる刃物、焼き尽くす火。どんな困難が来ても、それはおじいちゃんが見た景色というご馳走だ。
プレゼントありがとう
最近話さない同胞へ
次の休日が晴れますように
駐車場の裏で出会う懐っこい猫に癒されますように