長い目で見たときに幸せになれるものを創るクリエイター。東京のマルチメディア ディレクター。人の心と向き合うことのほか、祖父母の影響で旅と記録が好き

花小金井と周辺の市

東京病院

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清瀬 / 東京病院

同じエリア内の施設・場所

最終訪問日 2020年12月12日

初回訪問日 2017年11月4日

エリア内の施設

傷痍軍人東京療養所 外気舎記念館
この場所の訪問記録
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    清瀬 国立病院機構 東京病院。おばあちゃんの入院で洗濯物などを届ける
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    東京病院 今日のおじいちゃんはあまり反応がなかった「川治温泉は行ったことある?」と言う質問には、はっきりとあると答えていた。それ以外の質問はあまり反応が少なかったが、箱根の写真はよく見ていた。 花の家へ。おばあちゃんは「雲がきて冬が来るみたい。寒くなるよ」と。言う通り、話してる途中、急に突風が来て、帰り際は寒かった。
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    すやすやと寝ていた 特に苦しそうな感じもなく。青森・岩手の写真をiPad miniで見せた。 足をマッサージしたら「どうもね」というようなことを言っていた。 会話で否定するときに首を横に振ったり、写真を見ながら「あー」とか「うん」とかちゃんと答えていたのに、「そろそろバスが来るから帰るね」と言ったら、そこだけとぼけたように無視されてしまった。 清瀬経由でおじいちゃんの家へ。結局ちょうど目の前で下里団地行き(終点で花小金井行きのバスに接続)のバスが行ってしまい、清瀬駅に出ることに。前沢辻あたりで渋滞。ここら辺は常に混んでいるらしい。花小金井五丁目バス停で降り、セブンイレブンでご飯を買っておじいちゃんの家へ。 おばあちゃんからおじいちゃんと昔デートしていた時の話など。花小金井駅前で集合して出かけたという。最初は青梅あたりへ栗拾いなど。大抵は西武新宿線沿線。お互い農家なので月に二回しか休みがなく、月一回しか会えないような感じ。ただ仕事をすると行って抜け出してきてくれたこともあったようだ。おじいちゃんはおばあちゃんの家のお母さんに気に入られていて、よくそっちの兄弟の面倒を見ていたとか。 おばあちゃんは小金井街道だけが舗装されていた時分に、裸足で歩いていたら通りがかりのおばさんに(みっともないと)怒られたそうだ。
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    東京病院 行くとちょうどおじいちゃんはカーテンの向こう、看護師さんに診察か何かをしていた。おばあちゃんと部屋の中・カーテンの外側で終わるのを待っていた。しばらくすると「川里さん終わりますね」というような声が聞こえ、おじいちゃんの声で「どうも……(以下聞き取れず)」という声がした。そして栄養を入れる管を手で外さないため(拘束用)の手袋を外してもらった。 先週同様に少しだけ目があって、目が起きていたせいか、行くとすぐにわかったようだ。握手して来たことを伝えると「ありがとう」「わざわざ」とはっきりと言った。後でおばあちゃんと話したが、「今日はよく喋っていた」と喜んでいた。ツタヤに借りに行ってiTunes(クラウドミュージック)に取り込んでおいた伍代夏子さん、天童よしみさん、千昌夫さん、水森かおりさんの曲を聴かせた。 なんとなく、僅かだが、千昌夫が一番心に響いているようだった。先週、花の家から持って来た「メガネ」がおいてあったので、せっかくなので「つけてみる?」と聞くとあんまり反応がなかった。 なのでメガネをつけてみた。メガネをつけるときはしっかり目を瞑っていたのでそれもわかるようだ。 しばらくしておばあちゃんに「これは老眼鏡だもんね。あんまり意味ないよね」というような話をしていると、「いらない」か「取ってほしい」というようなことを言った。 「そりゃあいらないよね」とちょっとふざけた感じでオレが笑いながらメガネを外すと、おじいちゃんはにこーっと笑ってくれた。なんというかこういう言い回し、表現が難しいが、おじいちゃん譲りだ。 いわゆる普段から無表情・ポーカーフェイスなので笑顔を見たのは久々だったと思う。 そしてそのまま本当に帰ろうとして、女性の看護師さんも部屋を出ようとした間際、「川里さん。『きょうは奥さん来ないですか』って言ってましたよ」「『今日はおばあちゃんは来(き)ないのかね」と言ってましたよ」とおばあちゃんに伝えた。それはおばあちゃんにとっても思ってもみなかったことだったようで驚いていた。 とにかく今日はよく喋っていたことを喜んでいたようだが、「よく喋ったら色々言われていーやだー」「わたしがくるか聞いていたなんて」「看護師さんにそれをいうなんてー」と嫌そうな口調で言っていたが、内心はすごく喜んでいるようだった
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    東京病院 656だかの通路側の部屋のままだった。カーテンを開けるとおじいちゃんと少し目が合った。でもやはりちょっとぼーっとしている。話しかけると「うん」と言っているような声を発した。 前回同様、iPhoneの中に入れている演歌を聞かせた。水森かおりさんや中村美律子さんなど。(栄養を入れるための管を取ってしまうのを防止するための)手袋を看護師さんに面会中だけ取ってもらって手を握りながら。しかしずっと手袋をしていたせいか暑かったようで10分くらいして「大丈夫」っていう感じで手を握り返すのをやめた。実際、手は熱が出ている時よりも過去最高に暖かかった。 足のマッサージをした。足を触られていると、おじいちゃんは(掠れた声だが)はっきりと「ありがとう」と言っていた。 花の家へ。下里団地、滝山団地、西団地などを経由するバスが一時間に一本くらいあったのでそれで花小金井五丁目(野中北・おじいちゃんの家の最寄りバス停)へ。おじいちゃんが欲しいと言っていたと言うメガネを取りに行くことに。 おばあちゃんが飲み物を買ってきてというので、暖かいココアと自分用のカフェラテを向かいのセブンイレブンで買ってきた。そして岬と会う予定もあったので17時前くらい(本当は16時半目標だったが)まで話していた。 おばあちゃんがいうには縛られるというのはもっとすごいということなのかと思ったと。近くの家の人が病院で縛られるというからどんな大変なことなのかと思ったらそうでもない、24時間誰かが張り付いているのは無理だろうからと理解を示していた。 元気な時のおじいちゃんの方が何かを言っても反応が薄かったせいか、今のおじいちゃんはちゃんと反応してくれるしいいねと。「ちっとは私のことを悪く思わないようになったかね」と言っていた
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    西武新宿線の車内放送「国内有数の高麗・曼珠沙華が見頃を迎えております。一部のレッドアロー号が高麗駅に臨時停車しております。」とあった。 東京病院 行ったらおじいちゃんは寝ていた。握手をしながらずっと水森かおりさんの音楽を聞かせていた。音楽を聴いたあと、しばらくして寝てしまった。そのためその後、長男と二階の売店に行ってアイスコーヒーを飲んだ。もどったあとはより静かに寝ていた。聴いたら身体を拭いてもらっていたそうだ。パンダのぬいぐるみは病院の人に気に入られたとおばあちゃん。トイレを取り替えてくれたヘルパーの二人組のひとも話題にしていたそうだ。管は痛くはないという。 病院からおじいちゃんの家に帰ってからおばあちゃんと終電間際までずっと話していた。オレは母親のように介護がうまいわけでもないから、おばあちゃんに対して唯一できる助けが変わらぬ雑談をすることだと思っていた。 いじめから精神の話をしているうちにおばあちゃんが語り始めた。 まだおじいちゃんが20歳だかの若い頃、おじいちゃんの弟が刃物振り回したという話。その奥さんが助けを求めに花の家に来たこともあったそうだ。原因は相続のことだったと言う。そう言う経緯もあってか、おじいちゃんに割り当てられた土地は少なかった。 他に似たような人も見たことがないくらいにおじいちゃんは低姿勢・謙虚で怒ると言うことが全くない。なので、そう言う兄弟間のことで、何かを見てしまったのではないかと自分は思った。また、だから(今回のように倒れても)親類に会いたくないのではないかというのはおばあちゃんの考え。殺人事件のようなものがあったとき、いまなら被害者やそれを見てしまった人がPTSDと診断されたり、その後に気がおかしくなって迷惑をかけたりするが、おじいちゃんは戦争などの極度の環境の経験もして人よりも心が強く、またその後も自分でカメラや旅行を積極的に行って自分のなかで処理しきっていたから、おとなしくて怒らない聖人のような人になったのだろうというのが結論だ。なにせそういう戦争などの「コアな部分」については聞いてもとぼけたり、少しの笑顔を返すだけで何も教えてくれなかった。 そのほか、おじいちゃんは従姉妹を旅行に連れて行くのが嫌がった。例えば川とか山とかでこのラインまでしか行っちゃダメだよというのをオレだときっちり守ったが、従兄弟はどんどん先に行っちゃうのがおじいちゃんとしては嫌だったそうだ。(オレは逆に約束を律儀に守りすぎて、過去にデパートで笑っちゃうようなことが起きたらしいが、それはすごすぎたことらしく、いまだに教えてもらっていない) ただそれもオレの考えとしては普通の人以上にコントロールできない人への恐怖みたいなものがあったのではないかと思った。 そのほかの話として、夜行バスで行った秋田は雷がなってひどかった。白神山地や八甲田や男鹿に行ったという。駅前できりたんぽを食べたらしい(オレも食べた同じ店のようだ・数年前に全焼) おじいちゃんの辛かったのではないか、と言う想像の話をしているとき、おばあちゃんはほんの少しだけ涙を溜めていたように見えた。「そういえば」といつものように話をし始めたおばあちゃんが続けた言葉は、泣いてしまったと言う珍しい話だった。 畑や花をいじるとき、特に雑草取りをするとき、昔は分けるようなこともなかったそうだが、いつしか「おじいちゃんのエリア」「おばあちゃんのエリア」と無意識に分けてやるようになったと言う。 雑草というのは放っておくとすぐに生えてしまう。おじいちゃんが入院した後も、外で雑草を抜いていてもおじいちゃんの領域は手をつけなかったそうだ。しかし、先日ふと顔を見上げておじいちゃんのエリアを見てみると、外見上は遠くから見てもわからないがちゃんと雑草が抜かれていたが、見えない部分や端っこには雑草が残ったままだったと言う。 それが目に入って来て、そのとき、おじいちゃんはもう結構前から弱っていたんだなと思った。そのことに気づくことができて、涙が止まらなくなったという。 予備校時代から最低1ヶ月に一回は花の家に行っていたが、昔から「なんでそんなに頻繁に孫が家に来るのか」といろんな人から言われているそうだが、自分にとって無意識としかいえない(周囲の孫は呼んでも来ないらしい)。 親という存在は近すぎて、今より大変だった子供の頃、農家で裕福とはいえないのに旅行に連れて言ってくれたことが、とにかく嬉しかったことが理由としか思えない。安い時期とはいえ、下田の旅館に11回連れて行ってくれた事もあったが、そういう話は周囲で聞かない。もっと裕福な家でもだ。 「孫が欲しいのはいいんだけど、選べないし、選ばれるかどうだかね?」とおばあちゃん。オレとおじいちゃんはたまたま合っていたからであって、お金も貯めなきゃしょうがないし、「おじいちゃん」だなんて言ってくれる保証なんかないんだから。その通りだと笑い合った。 お墓を一緒にしたかった本当の理由。おじいちゃんが以前、俺の家でお墓を建てた後くらいに「自分も中村家のお墓に入りたい」と話していたということを聞いた。当然、仮にもしそうなると全員の同意を取り付けないといけないし、まずもって不可能だ。 そんなことを言い出したのはてっきり、お墓を作るという金銭的なことなどを言っているのかのだと思っていた。ただおばあちゃんはその理由を聞いていたようで、そうではなかったことを知った。 それは一緒にしたら、「こうちゃんが線香をあげに来てくれるから」だったらしい。おじいちゃんが倒れて初めて目がうるっと来た。 「自分のためには来てくれないかもしれないけど、COTAの家なら守らないといけないという責務があるから来てくれるんじゃないか」そんなことまで謙虚なのだなと感じた。 焼き団子1本40円。すごく美味しい。ずんだも美味しい。左端は「ぶどう」。これは見かけ通り美味しくなかった。 病院に奥さんが毎日来ることは珍しくないようだが、毎日代わる代わる親類が来るおじいちゃんは、病院もその熱意に驚いているようで、すごく丁寧に接し、今後の施設などを考えてくれている。 病院収容のためには痰の吸引が日に8回以上していることが条件で、おじいちゃんはちょうど8回でギリギリ入院できるらしい。それがいいかどうかはわからないが、金銭的には助かるはずだ。 自分の最期は絶対こんな暖かく人に囲まれないだろうと思いながら、だからこそ子供への愛情、自分の孫へ与えることができたであろう愛情、そのできる限りを今居るおじいちゃんとおばあちゃんに向けようと思っている。 心を背けると、死に際に待って居るのは後悔しかないことを、自分が育てた愛情に囲まれて居る祖父を通して学んでいる。
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    本郷三丁目で眼科。電話をして大江戸線の新宿西口駅〜西武新宿経由で花小金井に向かった。お土産はプリン。自分用のサンラータンメンとおばあちゃん用の天ぷらそばを近くのセブンイレブンで買って行った。 東京病院 目はパッチリと開いていた。話しかけると頷いていた。今日はiPhoneの中に水森かおりさんや中村美津子さんの「二輪草」を入れて病室で音楽を流した。おじいちゃんは聞き入っているようだった。そんな曲を背景におばあちゃんと話していたら「おじいちゃんは音楽が鳴っている時に話しかけると怒るのよ」というので途中からは話しかけずに聞いていた。じきに眠くなったのかうとうとしていた。おじいちゃんは昔、農協からの招待で「伍代夏子」「美空ひばり」「天童よしみ」などのコンサートに行ってそうだ。看護師さんから(オムツを捨てるようの)ビニール袋がないということで売店まで買いに行った。 帰りのタクシーのメモ。花小金井に引っ越した時は野中新田のヨエモングミの南と書いたらしい
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    旅するレストラン「52席の至福」の列車のパンフレットを花小金井駅でもらった。花小金井の駅を降りるとタクシー乗り場は何人か並んでいて、全て出払ってしまっていたようなのでそのままサークルKに寄りつつ歩いて野中東通り経由で花の家へ。 セブンイレブンでおばあちゃんにうどんを、自分用にビビンバ丼みたいなのを買って行った。まだ来ないと思っていたようで鍵はかかったままだった。ご飯を一緒に食べ、しばらく話したのち、1時半くらいにタクシーを呼んで東京病院に向かった。「おばあちゃんも困るだろうけど」と前置きをした上で、「もし万が一、最高におじいちゃんの具合が良くなったら、このイベント電車に乗せてあげたい」「目標は高い方がいいからね」と伝えた。おばあちゃんは難しそうな顔をしながらも頷いてくれた。無理なのはわかっていても諦めずに祈りたい。 タクシーから降りて車椅子を用意しておばあちゃんを乗っけて病院へ。651という病室に変わっていた。また窓側で今度は隣に誰もいないのでよかった。夏は冬に比べると空室に余裕があるようだ。おじいちゃんは早速痰が絡んでいたのか苦しそうだった。ただ酸素吸入器は一番簡易的なものになっていた。ただ食事はおろか水も飲めていないとのことだ。手を繋ぐとすぐにわかったようだ。 足の靴下をめくるとちゃんと爪が切られていた。多分病院の人が切ってくれたようだ。手と足は取られていたようだが、お腹の拘束器具だけはつけたままにしていたようだ。その拘束器具の突起部分を触る癖があったようで、面会中はそれを外してもらったのだが、手持ちぶたさなのかお腹のあたりをもそもそと触っていた。 おばあちゃんはそれを見て、「隣(?)の家のおじいさんも勝手にズボンを脱いじゃう癖があったって聞いた」という話をしていた。おじいちゃんの手を握りながら、おばあちゃんと話していたとき。オレが何度か笑うたびにおじいちゃんがむせこむように何か反応していた。顔が苦しそうな感じだったのでうるさいのかな?と思っていたがどうやらそうではないようだ。 「苦しいの?」と聞くと首を軽く横に振りながらそうじゃないと否定する。またおばあちゃんと話し始めておじいちゃんに語りかけるような話をするとまた強く反応した。 おばあちゃんが「なに?」と大きめの声で聞くと今度ははっきりとオレの耳には聞こえた。ただおばあちゃんはわからなかったようで、なんども「なに?どうしたの?苦しいの?」と聞き返して、その度におじいちゃんの口調が強くなった。 おばあちゃんはそれを見て「怒ってるのかしら」、「今まで怒ったこともないから怒ったら怖いわ」などと冗談のように言っていた。 続けて何か苦しそうにもがきながら、足を強くバタバタさせながら繰り返し言い始めたので、おばあちゃんにこう言っているよと言って制止した。 言っていてはっきりと聞き取れた言葉はふたつ。 「じゃべりたい!」 「こうちゃん」 「喋りたい」は何度も何度も言っていた。 そこでふと数ヶ月前に花小金井のおじいちゃんに来た時を思い出した。いつも通りおばあちゃんとたくさん話したあと、おじいちゃんがいつものように玄関先の外まで見送りに来てくれた。その時珍しく。「またね」の前に「今日はこうちゃんと話せなかったので、今度はこうちゃんとたくさん話したい。」と言っていた。 その後に一度か二度か訪問していて、それより前もその時もそのあとも相変わらず話す量はあまり変わっていなかったのだが。ただその台詞を思い出した。 そして聞きたくなかったがこんなことをボソッと最後に言った。 「家に!帰りたい」 おじいちゃんとは別れ際に、「先週よりすごく良くなっているから」「頑張って立てるようになって」「タンも自分で取れるようになったら家(に帰るの)も夢じゃないから」と。 実際先週の金曜日に比べるとかなり良くなっている。無意識に手足をバタバタさせているわけでもなく。ただ拘束されていたからか逆に大人しくなったぶん、リハビリの道は険しそうだった。足も片足は曲げたままだ。 あとは痰も人より出すのが下手なようだ。そういえばおじいちゃんが痰を吐き出す音を聞いたことがない。 痰の吸入をしてもらって話した後、自分でいくつか痰の塊を出して舌の上に乗せて来たのでティッシュで取ってあげた。それを何度か繰り返した。その後に取り出せないようなものがあったのでナースコール(呼び出しボタン)で看護師さんを呼んで撮ってもらった。その後はすっきりしたようで、眠そうにうとうとしていた。 帰りもタクシーで一旦おじいちゃんの家へ。その後30分ほど話してから花小金井駅に向かった。 秋葉原 京都勝牛 ヨドバシAKIBA、 STORY CAFE by YURINDO。
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    おばあちゃんと病院へ向かった。途中おばあちゃんが「ここら辺まで小学校に通いに行ってた」という話を聞いた。当時おばあちゃんは実家の東久留米にいたので、一時間くらいはかけて畑の中を歩いて通っていたそうだ。新小金井街道の一部はずっと今でもカリンが植えられていて「カリン街道」というらしい。おじいちゃんが言っていたようだ。 訪れてすぐにショックだったのは、まるで歩きたいかのように足をバタバタとさせていた。点滴などの管を抜いてしまったようで、手と足は拘束されていた。また手はひっかくような動作をしてしまうため手袋をしていた。見かけは一昨日よりも悪化しているように見えた。 手を握ると、リズムを刻んで握り返してくれた。そのリズムはどこか痒いからひっかきたい動作なのか、何なのかはわからない。何となく腹の拘束器具を取ろうとしているようにも見えた。何れにしてもしたいことはあるが、手足ははっきりと動かせないような感じだ。 気道確保のために首は上を向いていて、見舞いに来ても覗き込まないと見えないような位置になっていた。 熱は38度と高くなっていた。後から頭を冷やすために氷枕が用意された。「COTAですよ」というと握り返してくれた。目は見えていて、音も聞こえて、声は出せないが何か言おうとしていた時があった。しかし基本的には口はパクパクしていて、手を握っていると足は動かないが、手はリズムがあるように握り返す感じだった。 唯一少し良かったのは酸素量が15リットルという最大値から7リットルまで落ちていたことだ。7リットルでも多いと看護師は言ったが、今はそれだけでも希望を託すことができる。酸素吸入も口と花を覆うタイプから鼻だけのものにレベルが落ちた。 ただ、口はずっと開けっ放しなので乾燥してそうで心配になった。時折、痰なのかつばなのかわからないが喉につかえて少し苦しそうだった。お見舞いの品は机に置いてきた。花は最近はだめらしいので、草の生える奴は処分されてしまうかもしれないが、とりあえず水を与えておいてきた。おじいちゃんは「あと5年は生きたい」と言っていたという話を聞いた。本当にあと5年は生きて欲しい。だけどどうかこれ以上、苦しい思いはさせないで欲しい。それくらいのわがままは許されてもいいような、立派な人生を送ってきたのだからと。そう思った。
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    国立病院機構 東京病院 おじいちゃんのお見舞い。先週土曜日におじいちゃんの具合が悪くなる。昨日の夕方、熱が出ていて容体が悪化。おばあちゃんが知識で少し知っていた#7119(緊急相談センター)で問い合わせようとするもわからなかったことや意識が遠のいていっているのでそのまま119番で通報。18時30分ごろ救急車と消防車が到着。隊員6名。隊員が家族への連絡を強く勧めて他の家族は連絡がつかなかったが、母が出て連絡が取れる。救急隊員には#7119を使うような余裕ある状況ではないと怒られたそうだ。 今日は10時半前に花の家に到着。途中高田馬場でJucerbarでミックスジュースを飲む。花小金井からは涼しいので徒歩で向かう。入院費の支払いの書類を書いた後、タクシー(三和交通)で東京病院へ。途中、小平の方のタクシーは素晴らしいという話を車内でする。 到着後は口を覆う酸素吸入器をしていたものの容体は安定。ただし話しづらいようだ。先生と話した。肺炎であること、しかし肺炎にもたくさん菌があって、たまたま尿や痰から特定できるが難しいため、それ全般に対する抗生物質が処方されること。誤嚥性肺炎だと簡単には行かず2週間以上入院が長引くこと。昨晩にトイレに向かおうと歩き出して転んだので、ベッドの横に検知マットが敷かれたこと。 誤嚥性ではなさそうなのでしばらくしてお昼ご飯が来た。おじいちゃんは食べたいという欲がすごいせいか、母が準備している間にもご飯を手にとって食べようとしていた。エビフライ・クリームコロッケ・ポテトサラダ・パン(ジャム付)・お茶・野菜ジュース。細かくしたものを口に入れると、もっとくれというような感じなので何度か口に入れたものの、飲み込めず苦しそうに。 看護師の協力のもと吐き出させた。その間、オレは2階にある独自コンビニで入院セット・タオル・スプーンやフォーク・ティッシュを買った。6階655の病室に戻ると、戻すことはできたものの、今度は喉に痰がつかえているような感じだった。その直後に看護師がまたやってきて様子を見に来たが、看護師がいると緊張なのか我慢してしまってかうまく痰が出せないようだった。 かれこれ十数分、吸引機を鼻などに入れられ苦しそうなゼーハーとした音が病室に響き続けた。それを聞いていた母が具合が悪くなったようで席を外した。戻ってきてもまだ続けていたので今度はトイレに行くと。見ていて辛いと漏らした。 そのあとさらに上司のような看護師と二人体制になり、また時間が経って吸引が終わったようだった。吸引終了直後に何度も小さな声で看護師に訴えていたのだが、それが看護師には聞こえなかったようで「おしっこって言っているのかな」とつぶやいて伝わったようだった。 はっきりしない声だったが、一発で言っていることがわかった。紙おむつもないので売店に買いに行くついでにご飯を食べに行った。 食堂に行き、売店で紙おむつと入れ歯ケースを買って戻ってくると酸素吸入器のレベルは(蒸留水入りで)上がっていたが、喉の違和感は無くなったようで良かった。 足が汚いことがわかった。足の指の爪は巻いて刺さっていた。うまく歩けないのはそれが原因だと思った。 最後は強い握手をした。多分色々と物を言えないので、握手の強さで伝えてくれるのがわかった。 一番思ったこと 今回は父方の祖父との違いだ。似たように初期の頃、意思疎通ができず、見舞いに行くと泣いて喜んでくれたことがあったのを覚えている。でも父方の祖父の場合は母や看護師に何かを伝えようとして、自分には何を言っているのかわからなかったので、それがわかる母や看護師などはすごいなぁと感じていた。 ところが今回の母方の祖父の場合は、周りが聞き返す中で一発で「おしっこ」だ、とか「靴下はすぐに入らないけどあったほうがいい」ということがわかった。それがちょっと不思議だったが、ささやかながらちょっと嬉しかった。 酸素吸入の変化。(昨日)9リットル、(到着時)6リットル、(喉に詰まりがあって)10リットル、(その後)15リットル(蒸留水は酸素が乾燥する性質があるので加湿を目的) 東京病院からは富士山も見えるらしい。よく見ると西武遊園地の観覧車も見える。馴染みのある・子供の頃に連れて行ってもらった場所が遠くに見えて、それが見えることが嬉しいのと同時に、そこまでの距離感が今と昔との距離感のようにも感じて複雑だった。でも晴れてすごく綺麗な景色で、素晴らしい病院だと思った。 日替わり定食Cを。おばあちゃんは天ざるそば。 おばあちゃんはいつもならおじいちゃんを「はっきり言わない」「怒らないから何がして欲しいのかわからない」というのに、今日は「本当に立派な人。我慢強い」と褒めていた。 おじいちゃんがはっきり言わない人だと気付いたのはおばあちゃんが60近くなってからだという。それまでは子育てや農家に必死だったから気づかなかったそうだ。
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The original article is in Japanese; please switch to Japanese for the NFT(ISCN) and the URLs that represent it.

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