(No title)
COTA
COTA
COTAの手記
おばあちゃんと病院へ向かった。途中おばあちゃんが「ここら辺まで小学校に通いに行ってた」という話を聞いた。当時おばあちゃんは実家の東久留米にいたので、一時間くらいはかけて畑の中を歩いて通っていたそうだ。新小金井街道の一部はずっと今でもカリンが植えられていて「カリン街道」というらしい。おじいちゃんが言っていたようだ。
訪れてすぐにショックだったのは、まるで歩きたいかのように足をバタバタとさせていた。点滴などの管を抜いてしまったようで、手と足は拘束されていた。また手はひっかくような動作をしてしまうため手袋をしていた。見かけは一昨日よりも悪化しているように見えた。
手を握ると、リズムを刻んで握り返してくれた。そのリズムはどこか痒いからひっかきたい動作なのか、何なのかはわからない。何となく腹の拘束器具を取ろうとしているようにも見えた。何れにしてもしたいことはあるが、手足ははっきりと動かせないような感じだ。
気道確保のために首は上を向いていて、見舞いに来ても覗き込まないと見えないような位置になっていた。
熱は38度と高くなっていた。後から頭を冷やすために氷枕が用意された。「COTAですよ」というと握り返してくれた。目は見えていて、音も聞こえて、声は出せないが何か言おうとしていた時があった。しかし基本的には口はパクパクしていて、手を握っていると足は動かないが、手はリズムがあるように握り返す感じだった。
唯一少し良かったのは酸素量が15リットルという最大値から7リットルまで落ちていたことだ。7リットルでも多いと看護師は言ったが、今はそれだけでも希望を託すことができる。酸素吸入も口と花を覆うタイプから鼻だけのものにレベルが落ちた。
ただ、口はずっと開けっ放しなので乾燥してそうで心配になった。時折、痰なのかつばなのかわからないが喉につかえて少し苦しそうだった。お見舞いの品は机に置いてきた。花は最近はだめらしいので、草の生える奴は処分されてしまうかもしれないが、とりあえず水を与えておいてきた。おじいちゃんは「あと5年は生きたい」と言っていたという話を聞いた。本当にあと5年は生きて欲しい。だけどどうかこれ以上、苦しい思いはさせないで欲しい。それくらいのわがままは許されてもいいような、立派な人生を送ってきたのだからと。そう思った。
COTAと おじいちゃんと おばあちゃんと 一緒にいる