デッド・ウィズ・アライブ 13,849日 21時間 41分
きょう、空を下見した
遠い過去に消えた星の光が目に届くとき、星は死んだと言えるのか。心奪われる花を咲かせる木は、春だけに価値があるのか?
おばあちゃんが旅立つ1週間前の2023年2月5日。俺は東京の空を飛んで下見をした。一見雑然としている都会でも、どこを切り取っても欠けている部分がない歴史が刻まれている。
ピースをしない、平和
「ピースはしないで」
これがカメラが大好きだったおじいちゃんが唯一した俺へのお願いだった。「ピースとかポーズってのは普段はしないなんだろ?意味が強い。だから余計だよ」その甲斐あって残ってるデータはどれも日常を切り抜いたようなものばかりになっている。
すべての映像の始まりは祖父母の花の家からになる。ここで幼い頃の俺をあやすおじいちゃんと、今回のお話のおばあちゃんが映っている。
この写真の通り、俺は実家に行くよりも早く花の家で育てられていた。
映像を見るとわかるかもしれないが、出産の瞬間に俺は目に怪我を負い、左目を失明する。2歳の前にはプロテーゼ(義眼)を入れることになるが、それまでの映像はお見苦しい部分もあることをご容赦いただきたい
とにかく出産直後に大学病院へ緊急搬送の後、花の家でしばらくの間育てられることになった
合計13,849日 21時間 41分となる、おばあちゃんとの時間が始まりを告げた
映像記録(ブイログ)の始まりは日本のパナソニックが出した初のVHS一体型カメラからだった。重量は2.5kg。その大きさは三脚か肩にかついで撮影するものであった。
それまでの時代のビデオカメラは、記録するテープを収めるデッキ部分とカメラ部分が分離していた。二人がかりで行うことも多く、とても日常の記録に適しているものとも言えない。1976年に日本ビクターから出るとVHSテープが世界で一般化されたという経緯がある。
実家で導入されたビデオカメラをはじめに手にして記録を始めるおじいちゃん。その姿がビデオカメラに収められている。
生まれて首も座ってない、その頃から毎週、多い時は数日おきに片道2時間をかけて花の家からCOTAの実家まで通ってくれていた。
なんでCOTAはそんなに祖父母の家(花の家)に来るのかと、周りの親類から聞かれることがなん度もあったというが、他でもなくこの当時の祖父母の行動こそがその答えと言えるだろう。おじいちゃんもおばあちゃんも「来たかったから来ただけ」というが、理由としてそれほど嬉しいことはないだろう。それは子供ながらに俺にまで届いていた
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“好きな人を好きな人が好き”
おばあちゃんは「60代くらいの時はとにかく幸せだった」と言っていた。おじいちゃんのカメラ好きが旅行に行く回数を加速させ、COTAも多い時では毎週末旅行に連れて行ったもらった。
自分は静かだった。ビデオを見返していても、自らちょっと気持ちが悪いと感じるくらいおとなしい。赤ちゃんの頃のぐずる様子は確認できたが、泣き叫んでる姿は見つけられなかった。
残っている映像がたまたまそうだったのではなく、自分の経験としても例えば5歳くらいの時に長野への特急(あずさ)に乗っているときに、あまりにおとなしいからと前の席のサラリーマンが「すごいな君は」とたくさんの飴をもらった記憶がある。
バスツアーで伊豆に行った時は、周りで子供が駆ける中で一人でお寺のお坊さんの話を正座で聞いていたところバスガイドさんから心配されたり、お坊さんに褒められた覚えもある。
おばあちゃんはうるさいことが嫌いだったから、そこら辺は大きなメリットだったのだろうと思う。おじいちゃんも叱ったり強くいうことが苦手で、例えば川遊びに連れて行ってもCOTAは「これ以上は危ないからいっちゃダメだよ」というと必ず守るのは助かったと言っていたそうだ。
しかしこの「おじいちゃんのいうことは絶対に守る」というどこから湧いて出たのかわからない強い信念のせいで、おじいちゃん本人までもが呆れるくらいのこともあった。ある時おじいちゃんと出かけた帰りにおばあちゃんへのお土産のお菓子をなんとしてでも届けるのだと、コンビニも無かった花の家の周りで終電間際でも絶対に曲げなかったこともあったのだから、もちろん両手をあげていいかと言えばそうでもない。
最後まで恋愛してた
奥ゆかしくも少し複雑なところだが、おばあちゃんは「おじいちゃんが好きなCOTA」を、おじいちゃんは「おばあちゃんを大切にするCOTA」が大切だったようだ。
子供の頃におばあちゃんに叱られた記憶はない。しかしおじいちゃんが亡くなった翌年、自分の生活でも大きな変化があった。その時におじいちゃんのことと自分のことでうまく立ち振る舞うことができずにいた。そんな姿勢を見たおばあちゃんが「おじいちゃんのことを考えてくれない今のCOTAが悔しい」と言っていた時があった。初めて自分の希望を言うおばあちゃんに衝撃を受けたと同時に、やはり普段はあれだけ悪く言ってたのに本心ではそれだけおじいちゃんを思っているのだと。本人が取り乱す前で感動したことがある。
おばあちゃんが生まれ育った家は、畑を挟んでほぼ反対側におじいちゃんの家があった。元々おばあちゃんは少しお嬢様のような家だった。しかし生まれてすぐに家族内で不幸が重なってシングルマザーとなり、お兄さんも肺炎で亡くなる。すると一気に貧しく大変な生活になってきた。肺炎による差別、夜は電気はなく、月が雪に反射した明るさで勉強した記憶があるという。
そこで力を添えたのがおじいちゃん。農作業で鍛え上げていて、農作物を収穫しては日々何十キロと先まで野菜を満載に積んだ大八車を自転車に紐で縛って運んで往復していた。その傍らでおばあちゃんのお母さんのお手伝いをしていた。最初はおばあちゃん自身よりもおばあちゃんのお母さんが献身的なおじいちゃんのことを気に入ったそうだ。
畑作業の合間、おじいちゃんはおそらく兄弟と口裏合わせをしておばあちゃんと待ち合わせをして行っていたようだ。
ふたりの主なデートといえば花を見に歩いたり、秋でいうと栗拾い。ちゃんと着物を着て行ったそうだ。現在の中央線の高尾の方まで蒸気機関車に乗って行く。聞いたことがるのは途中で喧嘩をして、怒ったおばあちゃんが中央線の貨車に乗り込んで一人で先に帰ってきてしまった話。今では想像できないが、貨車の運転手も「いいよ」と二つ返事だったという。
もっともおじいちゃんから喧嘩を売ることなどなく、原因は何かを決めるときにはっきりしない性格だからだろう。おじいちゃんの前でもいつも「私はおじいちゃんのはっきり言わないところが嫌いなのよ」と話していて、おじいちゃんは苦笑いするしかなかった。
おじいちゃんがおばあちゃんに見せる好意の表現はわかりづらいものだったが、例えば2016年の話の中で、俺がおばあちゃんの誕生日近くの新聞を持って行ったことがある。自分の誕生日の時は反応が鈍かったのに、前のめりに笑顔で嬉しそうにしていたことは一つの例だろう。
そうしてもう一つ、おじいちゃんは生前「出棺の時・死ぬ前に聞くのは二輪草がいいなあ」と言っていた。中村美津子さんの楽曲だ。
この曲は寄り添う二人を描いたものだが歌詞の通りに「生きる力をくれる人」これがきっと伝えたかったに違いないだろう。
“どうして?”
子供・人の育て方というのはさまざまだと思うが、おばあちゃんの育て方もまた性格の通りまっすぐだった。
そもそもおばあちゃんは「子を育てる」と「自分が学ぶ」というときの立ち位置に変わりがなかった。俺は赤ちゃんの頃からおばあちゃんが旅立つ1ヶ月前まで、「なんで?」「どうして?」という言葉を続けて耳にすることになる。
一般的には子供が親に聞く言葉として多い気がするが、子供のころから自分が何かをすると自分が聞く前に「なんで?」「どうして?」と聞かれるので自然と考える力は養われていった。おじいちゃんが教えてくれた川遊びや磯遊び、虫取りや木登りなどのひとり遊びとの相性もよく、こうして怒られることが一度もないのに今の心を育ててくれた。説明する力や自分がそうである理由、一人で取り組見ながらも客観性を持つということは表現をする仕事においてもとても大切な宝になっている
おじいちゃんが2017年に亡くなったあと、おばあちゃんは一人で花の家で過ごしていた。90を越えての一人暮らしは周囲も驚いていたが、しかし徐々に衰えは隠しきれず、また2020年になると新型コロナウィルスの感染が広まり、この先をどうするのかを決めなければならない時が来た。
「施設に入りたい」という言葉を口にした。驚きはなかった。そして同時に、まったく本音じゃないこともわかった。ただおばあちゃんの中で誰かに迷惑をかけることは許せないのだ。子供の頃から「私は匂いとかないか?汚く感じないか?」「昔みたいに(姨捨山の話)年取って邪魔になったら山に捨てて」と言っていたから、施設に行きたいもまた一つの本音なのだろう。俺は「周囲は歓迎しているから大丈夫だよ」と何日もかけていろんな方向から説得することでようやく実家に来てくれることになった。
“病院に行けて嬉しい”
俺の実家に来てからはお絵描きをしたり工作をしたりお話をしながら、毎週末の時間を過ごしていた。そして2023年1月上旬、発熱が止まらず最後の入院となる。息苦しそうな姿が心配でベッドを覗きこみ「大丈夫?」と言うと、いきなり手を全力で叩かれた。弱々しい姿を見せんな、と言うメッセージだった。おじいちゃんの亡くなった後に、俺が弱音を吐いた時「もうCOTAは家(花の家)に来ないで。弱々しい姿が大嫌い!」と拒絶されたことが思い出される。
とにかくおばあちゃんには「病院に行けて嬉しい」と返されてしまった。最後こそ一緒に居たかった俺の希望とは真逆の言葉だった。前回の退院の時も「トイレなど汚い始末を子や孫にもさせたくない、見せたくない」という考えは変わらなかったから、病院に行きたいと言うのもまた本音だろう。入院当日、病院で一人一人に「お世話になります」と挨拶をして病院に入って行ったと言う。本来なら耐えられないはずの高熱が嘘のような姿で周囲が圧倒されたという。
俺は何もできなかった。そして今度は引き止める時間の猶予もないままにおばあちゃんはもう入院をしてしまった。コロナ禍は数秒でも面会は一切許されない。あとは不幸の知らせを待つだけだ。無気力で寄ったコンビニの帰り道、冬風が首筋を撫でていく中でビニール袋を片手に涙が出ていた。
最後の治療は中心静脈栄養となると告げられた。正直おばあちゃんと会えないなら、別に苦しくないならなんでもいい。そうして数日が過ぎた。
急に連絡があった。
“帰りたい”
「帰りたい」と。病院の医師に謝りながら訴えかけたそうだ。
その病院はおばあちゃんが2度ほど入院していて、とても親身だった。塗り絵や算数を一緒になってやることもあって、おばあちゃんの心もなんとなく伝わっていたようだ。そこで「本当に家に帰らないでいいの?」と言う話になったのだろう。
おばあちゃんは初めて、甘える、と言うことができた。
最後の退院
最後の入院の前、「最後のお年玉」をくれた。春に旅行でも言ってくるといいよ、と。一緒に花見ができたらいいねと話すと笑われてしまったけど。その願いを少しでも近く叶えたい。俺はおばあちゃんの帰ってくる部屋、元自分の部屋の中を桜や花で飾りたいと思った。
2月9日
退院。手を握りながら「嬉しい」「嬉しい」と繰り返し話していた。本人が周囲に迷惑をかけたくない・みっともない姿を見せたくないと気にしていたトイレの問題も、ついに最後まで汚すことがなかった。
2月10日
4時間程度寝て10分弱起きるを繰り返す。ゆっくり話していると「明るい世界」が見えたそうだ。一般的言えばせん妄に分類されるのだろうが、はっきりしているから興味深い。
数年前に入院したときは、「自分の生まれた村から出られない夢を見た」と言っていた。先述の通りおじいちゃんとおばあちゃんはほとんど隣り合ったような近所の家同士だが、村としては違っていた。だからその時は「おじいちゃんがくるなと言って他のかもしれないね」と話した。今回はちょっと違うようだ。
2月11日
朝からベッドの前に座っているが、おばあちゃんはずっと寝ている。夜起きた時に歯磨きをしてあげた。
2023年2月12日
この日の朝は介護士の方を交えて身体を綺麗に洗ってもらっていた。全て洗い流して綺麗になったあと30分くらいしてからだろうか。暖かい日差しの中で、気付けば旅立っていた。本人の理想の終わり方がそこにあった。感動的な光景だった
おばあちゃんに拍手
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動画やサイトでお話ししている祖母が旅立ちました
これはただの夫婦のお話です。ふたりの生き方はきっと誰かの心を穏やかにしてくれる、そういった思いから生前より動画やサイトでも過去にお話をしてきました
他人との付き合い方が変わっていると言われながら周囲から愛された祖母。それは戦前生まれでシングルマザーの環境や貧しさの経験を重ねて、生きることはうまく行かないことが前提であるという哲学から来ていると感じました
人の交流も情報も行き交う全く異なる時代ですが、だからこそ同じ人間としてヒントになるものを秘めていると思い、大好きな祖父と大切にしてくれた祖母をここに供養しつつ、私と関わっていただけている皆さんの幸せを祈る場所をここにつくりました