この地と家の年表

Q
おじいちゃんとおばあちゃん

大正生まれの祖父は昭和に入ると戦争や食糧難など苦しい時代を生きてきた。祖父は字を書くことも拙く農業に徹していたが、自分よりも若い弟たちを大学へ進学させるために働いた。祖父自身は不満を漏らすことはなかったようだが、兄弟の中には生まれた年代によって変わる育て方へ不満を持つ者もあったようで大人しかった祖父は時に問題に巻き込まれるだけでなく、祖父には土地の割り当てについても制限があったそうだが不満一つ漏らさなかったという。

いずれにしても本家より独立してこの地を分け与えられた祖父は昭和50年代、夢見た大家族や自分の一生の棲み家として家を建てた。家を建ててからも農業の傍、趣味の花を楽しんだ。庭にある木のいくつかは自分で運んできて植えたという。花や木への熱心さは近所でも有名であったそうだ。

ふたりについて
二輪草
二輪草

風景の解説

今までの風景をまとめる

紀元前35000年(3万8千年前)
日本列島に人類が渡る

日本列島にホモサピエンスの集団が渡ったとされる

旧石器時代 (紀元前28000年・3万年以上前)
鈴木遺跡

文明があった痕跡である鈴木遺跡がこの地より南西約2Kmの場所で確認されている

縄文時代中期(紀元前3000年)
東久留米市の遺跡

この地より北へ760mほどの東久留米市№128遺跡(東久留米市前沢三丁目付近)で縄文中期の縄文土器を発見。またおばあちゃんの生まれた柳窪新田(スカイタワー西東京付近)に近い、この地より東方向へ500mほどの東久留米市南町において同じく縄文土器が東久留米市№133遺跡で見つかっている

天保年間(西暦1830年ごろ)
この地の開墾。旧地名は野中
のなか新田
しんでん与右衛門組
よえもんぐみ

未開だったこの地を天保の改革で開拓。矢沢大堅 和尚が享保7年(1722年)の7月に毘沙門天の夢のお告げを受けたとして上谷保村の百姓らと共に開発の誓願書を願い出て、2年後の享保9年5月に幕府より田無堺から立川堺までの開拓の許可を得る。リーダーとなった大堅和尚自身も鍬を振るって開拓に参加。

開拓の資金は享保8年(1723年)、鈴木新田の開発に出資していた千葉・木更津出身の野中屋善左衛門に出資してもらった。代わりにこの地が野中と名付けられた。享保17年(1732年)北野中、通野中、南野中の独立した3組に分割。各組の名主は与右衛門、善左衛門、六左衛門となる。昭和37年10月市制施行まで善座衛門組 与右衛門組、六左衛門組(現在国分寺市)として地名が残った。

開墾後は第二次世界大戦前までのしばらく、この辺りは花小金井・鈴木町のあたりが金の貸付を行なっており、土地を担保としていた。非常に厳しい条件であり到底返せないような条件だったため、そのまま土地を譲って小作人として働かざるを得なかった者もいたという(祖母の兄弟・周囲の話)

また東京街道は天保年間(1830年ごろ)非常に賑やかで酒やうどんを出す茶店:穴戸(あなっこ)があったという。昭和中期ごろまで綺麗な並木道だった

昭和20年(1945年)4月2日 午前3時前後
近くの中島飛行機を狙った爆撃を受ける

中島飛行機田無試運転工場・中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)を標的とした照明弾や時限爆弾などの攻撃を受け田無市(西東京市)で80名が死亡。4月12日には1トン爆弾での攻撃を受け同市100名が犠牲となったと言われる。幸いこの地には直接の影響はなかったものの、「雷が目の前で落ちる10倍くらいの衝撃があった」(おばあちゃんの話)という

昭和23年(1948年)3月17日
おじいちゃんに土地が割り当てられる

この時分は畑でできた野菜は自転車の後ろにくくりつけた大八車で調布の方(約10km)まで毎日運んだと言う

第二次世界大戦前の東京街道・芝久保〜野中(おそらく)
昭和50年ごろ
宅地造成が始まる

子育てがひと段落しそうな時期に最初の造成が始まり農地はおおよそ半分になる

昭和54年
着工

地鎮祭と建築中の様子

昭和55年 (1980年) 5月
新しい母屋が完成

おじいちゃんの念願だった新しい家(サイト掲載の家)が完成

2000年4月1日
最寄バス停の開設・廃止

2000年にこの地の付近に「花小金井三丁目」停留所が設置された。2012年に西東京市のバスに吸収される形で小平市側の同系統は季節運行に格下げ。その後廃止状態となった。2023年現在、最寄りは西武バスの「花小金井五丁目」と西東京市のはなバスの「芝久保四丁目住宅」停留所

Q
花小金井駅の橋上駅舎化と、花小金井駅〜科学館を結ぶバスの変遷

1980年代から西武鉄道新宿線の混雑を和らげることを目的に、並行して地下を走る急行線の建設が計画されたこともあり新宿線沿線の立体化は計画が出ては立ちきえを繰り返していたものの同計画は1995年に中止決定。花小金井駅は元々円成院やその寺の関係する拓殖大学第一高等学校の土地などで開発が進めることができたため、1998年12月11日に地上路線のまま橋上駅舎になった。

それまで花小金井駅周囲の道は手狭でありバスの駅前への乗り入れに難があったため、西側の小金井街道の踏切を南北に通り抜ける路線がほぼ全てだった。2000年4月1日に花小金井駅再開発で南口のバスロータリーの整備完了を皮切りにバス路線の再編が進む。関東バスが花09系統(花小金井駅~多摩六都科学館)の運転を開始し花小金井5丁目バス停を開設(西武バスと異なる東京街道上にある)、この地の付近には花小金井三丁目バス停(駅方面は35.73400827316353, 139.51698804111822、科学館方面は35.73416311002446, 139.51651078211796)が設置された。

2006年9月30日には花小金井駅の北口にもバスターミナルが完成し同地点が発着地とされる。経路は花小金井北口から合同庁舎前を左折・小金井街道で右折・北野中交差点で右折して東京街道に入り花小金井5丁目停留所、そこから科学館付近で生活道路に入り科学館まで至るルートだった。2012年5月27日に西東京市のはなバスに統合される形で小平市側の同系統は季節運行に格下げ。その後、直行バス運転は行われたものの廃止状態となった

平成19年(2007年)
2期目の造成

残り半分の土地も庭や母屋などを残し、畑のエリアが役目を終える

平成26年(2014年)
近隣にコンビニが開店

徒歩1分以内の場所・旧花小金井三丁目バス停の地にセブンイレブンができる

平成26年(2014年)12月22日
母屋の改修工事が完了

2014年10月20日より旧お風呂場の解体・ユニットバスの導入、1階の庭側の雨戸を電動シャッターに更新、トイレの更新、一部床面・外壁・屋根の修繕、雨戸の更新などを行い、12月22日に完了。監理 JA全農東京、施工 加藤工務店

このさき
母屋・うどん小屋・物置など全ての取り壊し完了
このさき
全ての造成完了に伴い、祖父母は失効

土地の移り変わり

2007年(左)と2023年(右)の周辺の変化。
カラーの箇所が元々は正司くんの土地だった
Date Japan Hydrographic Association
Data SIO, NOAA, U. S. Navy, NGA, GEBCO
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